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【おいでよ】中津市ってどうよ?No23【中津の夏祭り】
[152]名無しでよか?:04/07/13 12:43:58 ID:ZiPZZl8Q
ちなみにこういう文献もあった〜 nnr 博多祇園山笠は、博多の総鎮守・櫛田神社の祭神のひとつ、素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭る奉納神事。京都八坂神社の祇園祭りがそのルーツだと言われている。話は、平安時代までさかのぼる。八坂神社の祇園祭礼の始まりは、貞観十一年(八六九)。長保元年(九九九)初めて祭りに山車(だし)が現れた。その後、全国各地で祇園祭礼が行われ、独特の山車がお目見えする。 では、博多にはいつ伝わったのか。説はいくつかある。 まず、平安時代の天慶四年(九四一)。藤原純友(すみとも)の乱を平定するため、追討使小野好古(よしふる)が博多に山城国祇園社を移して祭った。これによって祇園社の祭りが発生したとされる。第二の説は、鎌倉時代の仁治二年(一二四一)。博多津中に疫病が蔓延したときのこと。承天寺を開山した聖一国師が疫病退散のため施餓鬼棚(せがきだな)に棒をつけて町人に担がせ、それに乗って聖水をまいたのが始まりだという。 しかし、どちらも伝説。年代が合わず、残念ながら信憑性には欠ける。 博多祇園山笠が初めて文献に登場するのは、江戸時代初期に成立したと言われる「九州軍記」。室町時代の永享四年(一四三二)を描写した条(くだり)に、山笠のことも書かれている。「山の如く十二の作りものをくみ、上には人形をすえて曳く」。さらに「今までこんな事はなかった」とあるので、この年が山笠の起こりだとも言われる。 室町時代の博多は、応永四年(一三九七)から、周防山口の大内義弘の所領。博多湾は明国との貿易基地として栄えた。京都や明、南蛮の文化を熱心に吸収した大内氏。その手で、博多は華やかな文化に彩られた。 このころ山口でも祇園祭が行われていたので、大内氏によって当地にも伝えられていたはずである。 一方松囃子は、その字が示すように、正月、松の内の祝賀風流(しゅくがふうりゅう)(拍子物・はやしもの)を意味し、室町期に日本中で流行した。京都で行われていた松囃子が、博多に持ち込まれたとも考えられ、実際「室町期、松囃子は博多において祭りとしての形が作られた」というのが定説である。 こうして、貿易港として栄えた博多の町で、二つの祭りは花開いた。
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