告知欄です

1- レス

【時代】中津市ってどうよ?!No.21【逆行】


[180]諭吉が育ったまち中津:04/06/05 09:26:23 ID:kpOI0Eus
>>179 >中津って時代がある町なのか??? ですって?? >諭吉が生まれ育ってたってだけで。。。。(生まれも大阪屋敷という説あり) 歴史を知らないにも ほどがあるでしょ! 中津地方の歴史は古く 日本初期や万葉集にもでてきます。 闇無の地名は古代より有名でありました 諭吉が中津で生まれたなどということは どこにもかかれていない、だれもいっていない でもこの誤解は現前として存在する 諭吉が大阪の藩の蔵屋敷から (父親がなくなったため) 中津に帰ってきたのは、彼が 1歳のとき。 それから19歳に長崎にでていくまでの 人格形成期の重要な時期を中津で過ごしています。 (彼は後に江戸にでてからあと7回も中津に帰ってきています) 彼が大阪の生まれであることは 歴史的事実であり、 それを知らないなんて中津人の恥だよ! (そのくらいのことも中津では教えていないのかな) また日本の近代が諭吉とその門下生から なりたっていることは 覆すことのできない事実です。 その中に多くの中津人脈が含まれています また日本の近世は 蘭学をとりいれたことに始まるというのは 教科書的事実 その蘭学を日本で始めてとりあげたのは 青木昆陽ですが、彼の母親は中津村上家の出 蘭学400年のみなもととして 「蘭学の泉ここに沸く」という碑が 東京・築地にたっていますが、 ここは中津藩医・前野良沢が住んでいた 中津藩中屋敷跡地。 ここで良沢らが「ターヘルアナトミア」から 「解体新書」を訳出したことが評価されて 建てられたもの。 その後この同じ場所に諭吉が建てた私塾が のちの「慶應義塾」となるわけです。 同じ「蘭学の泉、、、」については なんでここに?の疑問は残るが 中津駅北口前にも記念碑が建つ。 (前野良沢は中津藩医ではあるけれども中津には生活していない 当時、中津藩には御殿医が十三家あり、そのうちの半分が 江戸詰め、半分が中津詰めであったようです) その中津詰めの筆頭御殿医 であった村上玄水と高野長英は 長崎・鳴滝塾で同門(シーボルトの私塾) 高野は今年生誕200年、シーボルト事件に巻き込まれて 全国を逃げ回わる中で中津にも立ち寄り、 村上邸にかくまわれること40日 シーボルトの日本人妻はお滝       その娘はおいね 福沢諭吉は訪欧旅行の途中で長崎に二回目で最後の来訪をしていますが、 このとき折しもシーボルトは長崎におりこの訪欧団を表敬訪問しています。 (残念ながらこのときには諭吉との出会いはなかった) 諭吉はこの訪欧の途中のドイツでシーボルトのドイツ人妻と ケルンで面会しています。 そののち諭吉とシーボルトとは 江戸で出会いがあるようです。 諭吉は幕府側の通詞として、シーボルトは出島のキャピタンの 随行員として。 高野長英は愛媛宇和でも潜伏生活を送っていますが、 このときの潜伏先は二宮敬作邸(彼もまた今年が生誕200年) でおいねもこちらで産科医としての修行中であった 諭吉とおいねはその後明治2年になって 明治天皇の孫の出産に関連して接点があります すなわち宮内庁へのおいねの推薦文を諭吉が書いている、 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− とにかく中津というところは 幕末から明治初期の激動期において 特に歴史的意義のある土地であったことは われわれ現代を中津に生きるものにとっては 見逃すことのできない 文化的遺産の宝庫であることを認識してもらいたい。 中津は市がそのような資産にめもくれずにいることは 恥ずべきことだと思います。 これらは美術館などたてなくてもすむこと 市の教育委員会やロータリー、ライオンズも 適切な案内板や紹介文を建てており、それで 十分でないにしろよくやっている、、 あとはみなさんがちゃんとみおとさないようにすればよい


名前

E-mail



0ch BBS 2004-10-30